第二の習慣(メモ)

『7つの習慣』という名著がある。
大学時代に初めて触れて、以来、何度も折に触れて内省の切っ掛けとなる本である。

この本の2つ目の習慣(終わりを思い描くことから始める)を、私はまだ完全に原語化できていない。


★自分の葬式で、身近な人に読まれたい弔辞は何か

私は、何度かこれに対する言語化を試みているのだが上手くいっていない。しかしながら、何度も考えている事として纏めるならば、以下のような事を弔辞で読まれたいと思っている。

●奇抜性のある努力家。勉強家。
●論理的思考力に優れたフィクサー
●影響範囲としては、一般的に属し得る学校や職場や習い事程度のコミュニティで構わない。
⇒「ありがとう」とか「凄かった」よりも、(着眼や論理が)「面白い奴だった」と言われたい。


こういう観点でみると、私は今日死んだとしても80点くらいかなと思っている。
まだ満点は取れないと思っているのだ。何か私だけでなく、もう少し広い範囲にまで貢献してから死んでいきたい。

私は何か「仕組み」を残したいと考えている、、、のだと思う。私の変わりに後世に残るのは、必ずしも子孫ではなく理論でも良い。むしろそれを残す事の方が大変で、威光を放つ世界に対する益であるように思うのだ。。。

ただ、何も残せなくてもいっこうに構わないとも思う。つまるところ生命は化学平衡の集合体だ。この定常状態は厳密には破れていて、維持出来る期間に限界がある。即ち死がある。そこに何か理由があるかと聞かれると誰も答を言えないだろう。矛盾するかもしれないが、ある意味こういった観点から眺めると生きた証なんてものはあってもなくても良いように思う。(より厳密に考えるなら、"良い"とは何なのかを考察せねばなるまいが、それはやめておこう。あと1万文字増えそうだ。)

私が産み出した知恵が世紀を経て文明の利器になるのならそれは素敵だが、、、まぁその程度。そのアイデアを出したのが俺じゃなくても良いじゃない。神様に囁かれなくたって良いじゃないか。

今日死んだら80点。それは私個人としての成功だ。おそらく残りの20点は、公的な成功をもって補填されるように思うのだが、それが何なのかを私はまだ原語化出来ずにもがいているのである。
ただ、それと同時にもがいても益はねぇなぁと思っている自分も居る。何が「良い」のか。死んでからもきっと分からんのだろうなぁ。