信頼される手段が目的となる気持ち悪さ

私はヒューマンスキルが嫌いだ。研修を受ける度に思う。

本来とは異なる仮初の態度を気軽にインストールして振る舞う姿。どうしても気持ち悪く感じてしまう。心と態度がずれていて不自然だ。こういった人間を観ているとイラつく。



ヒューマンスキルマニアは、得てして目的の手前にある信頼という手段がいつのまにか目的となってしまうように思う。

相手を敬う心を持っておらず、自分しか観ていない。嫌いだ。

指数関数の話

未来予測をする上で、線形(等差数列)か、指数関数的(等比数列)かという考え方は非常に重要である。それは、世の中の現象を「掛け算・割り算」で考えるのか「指数算・対数算」で考えるのかという違いである。

●思考実験
ちょっと鏡っぽいような半透明の窓を想像しよう(マジックミラーですね)。
その窓に、外から100の光が入ってきて、20跳ね返って、残りの80が、あなたの居る部屋の中に入ってくると仮定します。

その窓を二重にしましょう。

外から100の光が入ってきたら、二重の窓の内側に居るあなたには、一体いくつの光が入ってくるでしょう?


考え方①:窓は固定値で20の光を跳ね返す
この場合は100-20-20=60だけの光が内側に突き抜けてくると考えられます

考え方②:窓は80%の光を通し20%を跳ね返す
この場合は100×0.8×0.8=64だけの光が内側に突き抜けてくると考えられます



....さて、どちらが正しいでしょう。



つまり、足し算(マイナスの数の足し算)の繰り返しなのか、掛け算(0.☆倍)の繰り返しなのか....という観点。


今、私は「鏡っぽい半透明の窓(マジックミラー)」と仮定したけど、これはもっと仮定を応用できます。例えば「光の吸収」です。

例えば海の水を水深5mmずつ、窓が積み重なっていると思考するならば、二重窓は水深10mmの地点、三重窓は水深15mmの地点に差し込む光....と現象を繰返して予測出来ます。

だから、考え方①(固定値の引き算を繰り返す)を取るか、考え方②(固定値の掛け算を繰り返す)を取るかで、その後の三重窓、四重窓と水深が深くなるにつれて、考え方の予測がどんどんずれていく。窓が1枚、2枚の時にどうなるかを考えておく事には価値があるんです。


....さて、反射と吸収混ぜて話をしてしまい、少々混乱したかもしれませんが、結論、自然界の現象は考え方①(固定値の引き算を繰り返す)と②(固定値の掛け算を繰り返す)のどちらが正解かというと、、、、、


実は考え方②なんですね。
掛け算の繰り返し!


★この世の現象は、掛け算割り算(足し算の繰返し)よりも、指数・対数的な感覚(掛け算の繰返し)で出来上がっているんです。


これは実験事実から立証する事も出来るけど、もう少し、思考実験を続けても経験から分かる筈です。
少し考えてみましょう。



さきほどの話に戻って、20という「固定値」を跳ね返す窓だったら、たとえば300の光が外からやって来たときも同じように「20」引くから、280内側に届く事になる。
...これは何か経験的におかしいよね。前提(入射光の眩しさ)を変えても、現象(反射は固定値)が変わらない....おかしい。


100の光で20遮るんだったら、300の光がきたら60遮りそうやん?


数式で喋れば
100:20=300:60じゃん!

つまり、「届く光の眩しさ(光強度)に関係なく、一定の割合で光を遮る」というのがマジックミラーの性質だ!(経験的理解)


ある1つの現象を観察したときに「一定の数値」ではなく「一定の割合」でやり取りされていると観るのが自然。これが繰り返されるからこそ、世の中は指数関数的に動いていくのです。


(まぁ、本当に厳密な話をすると、300じゃなくて、たとえば、桁違いの1000億の光がきても20%(200億)跳ね返せるかというと、それは、窓が溶けてしまうんじゃないかという事もある。光ビームで溶ける。。一定の割合で跳ね返せるという性質が、どんな前提(強い光)にも成り立つわけじゃない。ここが理想的な仮定と現実的な物性の壁。でも、ある程度の範囲では「一定の割合で跳ね返す」と予測できそうねって話)


さて、、、ここから具体的に光吸収の法則(ランベルトベール則)の話をしたいんだが、、、、今日はここまでにしよう。
実は、まだ俺の中で分かりやすく伝えられる自信が無いんだ。もう少し考えさせて。。

指数と対数は等しいという話

【掛け算と割り算】

2×3=2+2+2=6

かける数「3」は「(足し算で)何両編成か」を表します。

逆に、「何両編成だっけ?」と思い出したければ

6÷2=3

あ、3両編成だったと分かる。この「答え」を割り算の商と呼びます。

つまり、"かける数"と"商"は魂が同じです。
その心は「(足し算で)何両編成か?」ということです。

~~~~~~~~~~~

【指数・対数】

2^4=2×2×2×2=16

指数「4」は、「(掛け算で)何両編成か」を表します。

逆に、「何両編成だっけ?」と思い出したければ

log2(16)=4

あ、4両編成だったと分かる。この「答え」を対数と呼びます。

つまり、"指数"と"対数"は魂が同じです。
その心は「(掛け算で)何両編成か?」ということです。

そんなもんだよ

彼女は先週、男と別れてきたと俺に告げた。

俺は、その訳を彼女に聞いてしまった。

 

 

彼女が1年付き合った彼と別れた訳など、私は聞く必要がなかったのだ。それを教えてくれる事自体が遠回しなOKサインだろうと理解出来たのだから。しかし私は、何故彼女がそんな婉曲的な言い回しで私に真意を告げようと選んだのか疑問を抱いてしまった。だからこそ「彼氏と別れてきた」に対して、とっさに「じゃあ、付き合おう」ではなく「どうして?」という原因究明の確認を、約2秒後に返答してまったのだ。

 

今回は1回目のデートだった。しかし、彼女とは共通のコミュニティ(習い事)で50回以上も顔を合わせた仲だったので、既に人格についてはお互いに何となくわかっていた。従って、彼女は「3回目のデートで告白」よりも圧倒的に早い、今回の初回デートで進展を望むような心持だったのだろうと、後で冷静に考えると理解できた。ただ、私は彼女の「別れた」という発言から、瞬間的にそこまで感づけなかったーーーーーこの点は反省すべきだった。一気に想いを告げてしまっては失礼ではないだろうかという考えが脳裏をよぎり、「どうして?」という話題をワンクッション置いてしまったのだ。

 

今回のデートの約束を取り付けるまでの彼女と私との間のSNSの流れ(時間間隔・頻度・話の進みの速さ・意外性)の面から考えてみても、最初の切り返しで「じゃあ、俺と付き合う?」と最速で言えば良かったのだ。反省すればするほどそうだったように思う。「どうして?」なんて聞いている場合じゃなかった。

 

ところで、私の「どうして?」に対する彼女の返答は、「どのようにして」という別れ際のシーンに対する疑問として受け取られ、尻切れトンボになった風景を私は彼女から受け取った。その話の中に「好意が曖昧なまま付き合い始めた」という真因がぼんやりと含まれており、惰性で続いていたものにケリをつける要領で「最後は軽いノリで別れた」という結論に至っていた。

 

軽いノリで(後腐れなく)別れるという事は、なるほど良い事のように思える。

 

ただそれって、先週別れた彼に対してだけでなく、これから付き合うかもしれない俺に対してもそうなるって事?

 

何故だろう。そんなことを考えてしまった。

 

「え・・・? そんな簡単に分かれたの?」

「うん。 女子高生の恋愛なんてそんなもんだよ。」

「まじ? そんなもん?」

「そんなもん!」

 

そうなのか・・・。

これまでの人生で彼女を持った事が無い理系大学院生だった当時の私には、「そんなもん」だと言われた事が鮮烈に印象として焼き付いた。

 

結局、その日は告白できなかった。

ここで肩に手を周わして怖い思いをさせてしまわないだろうか・・・とか、この2人きりで逃げられない状況で手を握ったりして彼女は拒む余地がなかったらどうしよう・・・とか、「はい」と言うしかないような微妙なタイミングで、俺本位に好意を伝えて肯定を強要させてしまわないだろうか・・・とか、そもそも年齢的に(相手は未成年だから)犯罪なのではないのか・・・とか、俺もそのうち「そんなもん」になるのか・・・とか、色々な事柄が頭を巡って、何もしなかったのである。

 

意気地がなかったのだろうか?

総合的な判断だったように思うのだが、、、今でも後悔が残る。

 

 

2回目のデートは無かった。

 

 

誘っても都合が悪いと言われるだけで、別の日程を提示されなかったという事は、遠回しなNOサインであることが私には分かった。意地を見せられたように思う。

 

ここからは蛇足で本題なのだが、初回限りのデートの最後の別れ際、彼女が私に見せた謎の行動の心理が、ふと分かったのでここに書き留める事にした。

 

 

彼女は別れ際、突然「わっ!」と言って、私を驚かせて転ばせようとしてきた。

「え?なになに?」と言いながらも冷静に対処した私は、彼女の謎の驚かしにビクともしなかった。彼女の行動は謎過ぎて、本当に訳が分からなかった。

 

恐らく、この時の彼女の胸中は次のようなものであろう。

「本当は強引にでも不器用でもいいから好意を伝えて欲しかったけど、何もないままもうデートも終盤。こうなったらアニメや漫画の転ぶようなシーン、偶然でも何でも良いから何か起こって!」

 

多分こういう事だったのだろう。

いや、本当はもっとスマートに最速で告白して欲しかったのだろう。しかし、何も無くてどんどん失望していき、最後はもはや思いがけない偶然で良くなった。このまま何も起こらないままで帰るのは何より嫌だったのだろう。

深い意味はなく、このくらいの意味だったのだろう。

 

たぶん、そんなもんだ

 

結局、何もなく帰ってしまった。

 

これだけ失望させてしまえば、そりゃお互いに好意が残っていても2回目のデートを断られるのは納得だ。当然ではなく納得だ。3回目のデートで告白という王道までとても漕ぎ着けられない。

 

 

私は人生において、いまだに彼女が居た経験を持たない。

 

こんなもんだ 

語彙力を付けた方が良いというのは本当か?

私は精神病者である。

自らの病を振り返った時に「語彙力」というのものに思う所がある。

 

語彙力は、誰もが付けよう伸ばそうとこぞって得ようとする、まるでお金のようにありがたきステータスとして扱われる傾向があるように思う。しかし、ひとたび精神病になってしまうと語彙堪能なほど大きな苦しみを味わう事になり、むしろ無用の長物になってしまうのではないかと私は感じる。

 

おそらく精神病者は、外界を繊細に捉える感性の持ち主である。いわゆるHSPと呼ばれる気質を持っているのではないか。そういった人間が"語彙力"を持って理不尽を描写すると、あまりにも的確かつ子細に現状の絶望を言い表せてしまうのではないか。語彙力を持った自問自答は、自分の首をきつく締める事になるように思うのだ。

 

私の語彙力は高くないが、低くもない。

もう少し自分の気持ちを表すのが下手だったり、人の心を推察するのが下手だったら、精神病になる手前で生活できていたのかもしれないなぁと、そんなことをよく思うのだ。

 

気のせいかな?

 

 

 

 

 

童貞を殺す◯◯シリーズを28歳童貞である俺がどう考察するか、またそれを受けてどう思うか

私が初めて聞いたのは「童貞を殺す服」という単語であった。その出で立ちで目の前に立った女子に、私は何かを感じるべきだったか。いや、特に何かを感じる事もなく、逸脱しない範囲で美しいとだけ感じた事を覚えている。

世間一般で言うところの「童貞を殺す◯◯」というシリーズのニュアンスには、刺激的すぎて童貞だったら欲情して悶々としてしまうだろうという皮肉が込められているように感じるのだが、もう一歩踏み込んで考えれば、これは話者や概念を産み出した者自身へのブーメランであることに気づくだろう。

童貞は、風貌や雰囲気といった短期的で俗物的な何かに惑わされず、欲情を理性で御しているのだ。今一時の行動が十数年後、あるいは数十年後に与える影響の範囲や可能性や様々な結果を考えるのである。これには利己的な発想も利他的な発想も含まれており、思考の錯綜は甚大である。その結果、利他的な発想を優先するためにその場で手を出す事はない。そういう結論が積み重なって童貞になっているだけなのである。つまり、人々が悶々としていると誤解しているその論考の最中は、近未来の肉欲的な発想よりも、さらに未来に起こりうる事柄についての思考の方が多い。すぐに手に入る自分だけの快楽ばかりを考えるのではなく、自分のためにも相手のためにもなるかどうかを様々な角度から自問自答しているのであって、悶々としている訳ではない。例えばそれが明らかに誘いだったとしてもだ。本当に相手が望んでいることは何か。それが自分と一致したとして、長期的に見た時にそれは叶うべきなのか。そういったことを悩むのである。

従って、童貞を殺す◯◯で悶々としているのは、実は童貞ではなく、それを口に出して楽しんでいる者の方なのではないかと私(童貞)には思える。だって、それで悶々として手を出したり出されたいと思っているのはあなた方でしょう?だからこそ皮肉を込めてその言葉を発するのでしょう。そして、あなたに似ている思考を持つ者が(つまり当事者を抜きにして)反応して嗤うのでしょう?


童貞は存在自体がネタにされる。その事自体が面白い。童貞の方もまたこれを楽しめる。私が「あ、俺か」とそのネタ話に食い込むと、とたんにその場の雰囲気が瓦解するのだ。実に面白い。意外と身近なところに童貞が居ることを認識してバツが悪くなったのだろう。

そう簡単にバカにしちゃぁいけねぇよ。その嗤いの嘲りを感じて以て底が知れてしまうよ。単純な愛嬌を込めて笑っている人と、嘲嗤っているヤツの見分けくらいは簡単に付くのです。特にこういった話題では顕著にね。