友達以上恋人未満という言葉を考えた奴は天才だと思う...だけど...

●友達以上○恋人未満

まるで数直線を思わせるこの言葉は、未来を線形(一次関数)で予測する一般的な人間の感覚に合っていて非常に分かりやすい。この言葉は天才によって切り取られた世界の一側面なのだろうと私は思う。シンプルで直観的で素晴らしい。

ただ、この世は非線形なのであって、線形近似(シンプル)が正しいのは極めて限定的な領域だろう....と、理系的に思うところがあってこの記事を書いている。

そもそも、「友達」と「恋人」あるいは「婚約者」といった称号は、同じ直線上(次元)に存在しているんだろうか.....私は別次元の話なんじゃないかと思うのだ。

友達というベクトルをどこまで伸ばしても、それは友達ではないか。

私のイメージでは「友達」や「恋人」や「既婚者」あるいは「愛人」というのは、それぞれシャボン玉のようなイメージである。三次元空間に浮遊する「ベン図」のイメージだ。それぞれが占める範囲は違っていて、時に重なっていても良い。本来はそういうモノなんじゃないか。(性別すら曖昧なのかもしれない)

ただ、そのシャボン玉を強制的に空間的に団子状に並べて串刺しにした方が分かりやすい(ある程度まで社会的に繁栄しやすい)と気付いた人がいて、その串刺しの串(友達→恋人→婚約者)に沿って関係性を築く事を我々は選択したんじゃないか。

2020年現在、そろそろこの串団子の串を外して、シャボン玉のように団子は空間に自由に舞っていて良いと思うのだが....どうだろうか。

初めての男になりたい→なんで?

比較されない初めての男になりたいという論理が分からない。

例えば、2人目の男が初めての男と比較される時、女性のなかで初めての男は2人目の男と比較されているではないか。というか、初めての男はそれ以降もずっと比較され続ける可能性があるんじゃないか?

こう考えると、初めての男が比較されないという論理が俺には分からない。

"比較されない"のは多くの場合、その性交における瞬間的な話であって、人生の長さと比較してあまりにも短いだろう。

そんな瞬間的な存在になりたいのか?

.....まぁ、なりたいんだろうね。
俺には分からんけど、きっと、論理じゃねぇんだろう。

第二の習慣(メモ)

『7つの習慣』という名著がある。
大学時代に初めて触れて、以来、何度も折に触れて内省の切っ掛けとなる本である。

この本の2つ目の習慣(終わりを思い描くことから始める)を、私はまだ完全に原語化できていない。


★自分の葬式で、身近な人に読まれたい弔辞は何か

私は、何度かこれに対する言語化を試みているのだが上手くいっていない。しかしながら、何度も考えている事として纏めるならば、以下のような事を弔辞で読まれたいと思っている。

●奇抜性のある努力家。勉強家。
●論理的思考力に優れたフィクサー
●影響範囲としては、一般的に属し得る学校や職場や習い事程度のコミュニティで構わない。
⇒「ありがとう」とか「凄かった」よりも、(着眼や論理が)「面白い奴だった」と言われたい。


こういう観点でみると、私は今日死んだとしても80点くらいかなと思っている。
まだ満点は取れないと思っているのだ。何か私だけでなく、もう少し広い範囲にまで貢献してから死んでいきたい。

私は何か「仕組み」を残したいと考えている、、、のだと思う。私の変わりに後世に残るのは、必ずしも子孫ではなく理論でも良い。むしろそれを残す事の方が大変で、威光を放つ世界に対する益であるように思うのだ。。。

ただ、何も残せなくてもいっこうに構わないとも思う。つまるところ生命は化学平衡の集合体だ。この定常状態は厳密には破れていて、維持出来る期間に限界がある。即ち死がある。そこに何か理由があるかと聞かれると誰も答を言えないだろう。矛盾するかもしれないが、ある意味こういった観点から眺めると生きた証なんてものはあってもなくても良いように思う。(より厳密に考えるなら、"良い"とは何なのかを考察せねばなるまいが、それはやめておこう。あと1万文字増えそうだ。)

私が産み出した知恵が世紀を経て文明の利器になるのならそれは素敵だが、、、まぁその程度。そのアイデアを出したのが俺じゃなくても良いじゃない。神様に囁かれなくたって良いじゃないか。

今日死んだら80点。それは私個人としての成功だ。おそらく残りの20点は、公的な成功をもって補填されるように思うのだが、それが何なのかを私はまだ原語化出来ずにもがいているのである。
ただ、それと同時にもがいても益はねぇなぁと思っている自分も居る。何が「良い」のか。死んでからもきっと分からんのだろうなぁ。

もう少しさ、詳しく聞いておいてよ

昼休み終了5分前、12時55分。
オフィスの静けさを切り裂く電話音が鳴った。

私は当時、新卒採用直後に居室に配属された2ヶ月程度の新人であったため、当然のごとく電話受けをしており、その迷惑な受話音を0.1秒でも早く鳴りやませるために、すぐに受話器を取る立場であった。

その電話は、別室に居る中間管理職からの電話で、今朝、私の所属するチームのチームリーダーである上司(上位の一般職41歳)が起こしたミスについて、社内向けに報告書を作成するよう本人に促すための電話だった。本人(私の上司)に電話を代わってくれとの事である。

①私のチームのチームリーダである上司(以下、単に上司とする)は、昼休みの睡眠を愛する人であった。私は中間管理職と繋がっている受話器を耳に当てながら、ひょいと上司の方へ目をやると、いつも通り、居室の電子レンジで温めた私物のホットアイマスクをして、椅子を4席並べてその上に仰向けに寝ていた。この姿に、昼休み残り5分を切った所の微妙なタイミングで声をかけて起こすと、不機嫌になる事は目に見えていた。起こした後の「怒ってない。他の人だったら怒るよ...」とぶつくさ怒って、その後も機嫌が悪くなる、、、という、絵に描いたような言行不一致の無様な姿を想像して嫌になった。ここで声をかけることは、私のためだけでなく、彼の配下に居るチームメンバーへの影響(不機嫌なリーダー)も考えて、避けるべきであることは明白だ。

②従って私は、この電話を本人に取り次がず、折り返し連絡にする事にした。ほんの数分後ではあるが、昼休みが明けてすぐ何の件か分かっている状態で円滑な折り返し電話を出来るよう、条件を探った。

③電話の向こうの中間管理職に「その報告書作成のための雛形はどこにあるのか」と聞いたところ「詳しくは分からないけれど、社内ページの◯◯というところにあるかもしれない...」という半端な回答を得た。電話の向こうで社内ページをクリックしながら探している音が聞こえたので、どう考えても、私との電話で集中力が削がれた状態で探していては、昼休みが終わるまでに見つかることは無いと断定できた。

④これ以上電話で聞くと、電話の向こうの中間管理職が、何も具体的な準備をせずにこちらに電話してきたことを暴いてしまうことになる。それは申し訳ないし、そもそも問題を起こして報告書を書くのは、中間管理職よりも職位の低い私の上司なのだから、ここは中間管理職の顔をたてるためにも早々に電話を切るべきだろう。

⑤ここで電話を切れば、電話が切れた後に集中力を取り戻した中間管理職は引き続き社内ページを漁って、昼休みがあける頃には報告書の雛形を探すことが出来るだろうと推測できた。その直後に私の上司が折り返せばスムーズであろう。

⑥そして何より、仮にここで中間管理職が報告書の雛形を探し当てたとして、それを上司に渡しても、私の上司はとことん外面的な体たらくに執着する人であるため、結局は報告書を書く前に中間管理職に電話をして「役員はどれくらい怒っていましたか?」等と、どのくらい誤魔化して良いのか探りを入れるであろう事を私は知っていた。なので、折り返し連絡になる事は確定しているため、尚の事、初めから折り返しにしてしまうのが合理的なのである。

⑦既に私は中間管理職と2,3分は話していたのだが、抑えていても私の声は居室に響いてしまっていた。居室内にはおよそ40人の従業者が、各々静かに目を閉じて休憩していた。この各々の静が積み重なった思いやりに溢れた静寂を慮るならば、これ以上電話を続けるのは申し訳ないと判断し、私は早々に、中間管理職に電話を切って折り返す旨を伝え、電話を終えた。


12時58分電話終了。
約3分間の電話が終わった。


そして、昼休みが空けた。


私は上司に、今朝の件(私は詳しくは聞いていなかったが、噂で聞いていた)で、社内向けの報告書を作成するよう中間管理職から連絡があり、それは社内ページの◯◯にあるかもしれないが、詳しくは分からない。とにかく数分前の話なので、すぐに折り返し電話をして欲しいと伝えた。

そして、上司は中間管理職に電話をかけ、案の定、役員や取締役レベルの人間たちの怒り度合いを聞いて、報告書を書くことになった。


ここまでは、全て想定どおりで完璧だった。


しかし、上司は私にこう言ったのである。



「何でさ、報告書の場所とか、もっと詳しく教えてくれなかったの?中間管理職からの電話のときに、もっと確認できたんじゃないの?もう少しさ、詳しく聞いておいてよ。」



んー、浅はか!




私は上記①~⑦の理由で、あえて詳しく聞かずに折り返しの連絡にして、どちらかと言うとあんたより上位の中間管理職をたてたんだよ。そして居室の皆の、特にあんたの昼休みの睡眠を守ったんだよ。
結局、折り返しの連絡するんだから、この選択があんたも中間管理職も準備不足を暴かれなくてハッピーだろ?居室の皆もハッピーだろ?





短絡的で全体最適を考えない人の理不尽な怒りは、稚拙で疲れる。
「詳しく聞かなかった①~⑦の理由」を説明するのは面倒だし、これを彼(上司)が分かるように言語のレベルを変換しないといけないのも面倒だ。
考えるスピードで話せないのも面倒だ。

まぁ、この理由を説明しようとしたところで、どうせ私が説明し終わる前に5秒ごとに私の話に割って入ってきて、そのたびに文句だけ言う未来が見えるから、説明しないんですけどね。


ねぇ、それからさ、そういう時に全く関係のない世の中に対する不平不満不幸をどんどん膨らませて吐かないでくれよ。生きてて悲しくなる。



こうして私は、9か月後に精神病を患う事となる。
一つの言行を決定するのに、単純計算で私は上司の7倍深く理由を考えているのだ。
従って、一つの理不尽(やる理由ではなくやらない理由を吐く)に対して、私は通常の7倍のダメージを負う。


あぁ…論理的思考、多角的なものの見方って難しい。
私よりも、もっともっと5分以内(2~3分)で色々な事を考えられる頭のいい人たちがこの世にはいっぱいいるんだろうけど、その人たちって、もっともっと大変なんだろうな。居室に居る40人にとって、あるいは別室にいる人、社内にいる人、顧客...その他諸々の人々にとっての全体最適まで考えられる人も居るだろう。そういう人にとって、こういう私のかつての上司(41歳児)はどう写るのかな。難しい。


『7つの習慣』という名著に「主体的であれ」という言葉があり、我々人類は「出来事」に対して「どう反応するか」を自ら選択出来ると論じられている。私は、この出来事を決して看過出来ないと思っていたのだが、結局、今思い返しても、看過しない(主体的に合理性の欠如を怒る)のである。

私が精神病となったのは、多次元(多項目)における関数の極小条件(全体最適)を見つけようとする思索故であり、それはそれで良いと考えている。それを怠り続けている上司の短絡的思考に苛立ったのは当然なのだ。短絡的思考に対する苛立ちがあるからこそ、多角的に物事を捉えようとするのだから。これを無くしてまで生きていたいとは思わない。苛立たなくなったら、俺は終わりだ。そう定義する。

「清き一票」という悲愴

私は「清き一票」という言葉を聞くたびに思うことがある。この言葉は、汚い票に押し潰された人の悲痛な叫びなのではないかと。

こう書くと、フェミニズムを知らない新世代の女子がフェミニズム反対と叫ぶことを咎める某かに酷似した、そういった某かの派閥に批判を受けるのかもしれない。しかし、果たして選挙というものが本当に公平なのかという問題提起を、私はこの「清き一票」という言葉から感じるのだ。

一票の裏にある格差に不公平を感じた誰かなのか、立候補に付随する莫大な供託金や選挙費用を憂いた誰かなのか分からないが、上手く聞こえの良いように末代まで使われる形で、声にならない絶叫を永久に凍結した言葉のように、私には響くのだ。

不思議だ。

疾走感のある随筆

物理のエッセンス、良問の風、名門の森。
この繋がりが分かるそこのあなた、高校物理お好きでしょう?
解けた時に風を感じるような良い問題...懐かしいねぇ。

心地よく風が吹き抜けるような文章を書きたい。
そんな文章が並べられた電子書籍を書きたい。一回読み始めたら最後まで一気に読めるような、良風が吹く新書。
冗長性をどこまで許容し、表現の鋭利さをどの程度挟むのか。何より読者の姿をどこまで想像できるか。 新書の文字数は平均で12万字とのことだが、最適な文字数はテーマによって違うよなぁ...。

多次元の天秤を上手く調律して書き上げよう。
...というか、そもそも書き上がるかしら?