童貞を殺す◯◯シリーズを28歳童貞である俺がどう考察するか、またそれを受けてどう思うか

私が初めて聞いたのは「童貞を殺す服」という単語であった。その出で立ちで目の前に立った女子に、私は何かを感じるべきだったか。いや、特に何かを感じる事もなく、逸脱しない範囲で美しいとだけ感じた事を覚えている。

世間一般で言うところの「童貞を殺す◯◯」というシリーズのニュアンスには、刺激的すぎて童貞だったら欲情して悶々としてしまうだろうという皮肉が込められているように感じるのだが、もう一歩踏み込んで考えれば、これは話者や概念を産み出した者自身へのブーメランであることに気づくだろう。

童貞は、風貌や雰囲気といった短期的で俗物的な何かに惑わされず、欲情を理性で御しているのだ。今一時の行動が十数年後、あるいは数十年後に与える影響の範囲や可能性や様々な結果を考えるのである。これには利己的な発想も利他的な発想も含まれており、思考の錯綜は甚大である。その結果、利他的な発想を優先するためにその場で手を出す事はない。そういう結論が積み重なって童貞になっているだけなのである。つまり、人々が悶々としていると誤解しているその論考の最中は、近未来の肉欲的な発想よりも、さらに未来に起こりうる事柄についての思考の方が多い。すぐに手に入る自分だけの快楽ばかりを考えるのではなく、自分のためにも相手のためにもなるかどうかを様々な角度から自問自答しているのであって、悶々としている訳ではない。例えばそれが明らかに誘いだったとしてもだ。本当に相手が望んでいることは何か。それが自分と一致したとして、長期的に見た時にそれは叶うべきなのか。そういったことを悩むのである。

従って、童貞を殺す◯◯で悶々としているのは、実は童貞ではなく、それを口に出して楽しんでいる者の方なのではないかと私(童貞)には思える。だって、それで悶々として手を出したり出されたいと思っているのはあなた方でしょう?だからこそ皮肉を込めてその言葉を発するのでしょう。そして、あなたに似ている思考を持つ者が(つまり当事者を抜きにして)反応して嗤うのでしょう?


童貞は存在自体がネタにされる。その事自体が面白い。童貞の方もまたこれを楽しめる。私が「あ、俺か」とそのネタ話に食い込むと、とたんにその場の雰囲気が瓦解するのだ。実に面白い。意外と身近なところに童貞が居ることを認識してバツが悪くなったのだろう。

そう簡単にバカにしちゃぁいけねぇよ。その嗤いの嘲りを感じて以て底が知れてしまうよ。単純な愛嬌を込めて笑っている人と、嘲嗤っているヤツの見分けくらいは簡単に付くのです。特にこういった話題では顕著にね。